今日の芸術/岡本太郎

この本の冒頭で、岡本太郎は、芸術とはすべての人の瞬間瞬間の生きがい、自信から生まれるよろこびであり、そのよろこびが表現されたものが芸術作品である定義している。また、芸術はあらゆる時代にそれぞれ異なった形式と使命を持って創造されるので、定型はなく、絶対的に新しいという。さらに、芸術は「いやったらしく」なければならず、「きれい」であってはならないという。

 

「きれいさ」と「美しさ」は本質的にちがったものである。「きれいさ」は時代の典型、約束ごとによって決められた型であり、「美しさ」は、例えば醜いもの、不快なもの中にも見つけ出せるように、自分の精神で発見するものであるからだ。

投資家が「お金」よりも大切にしていること/藤野英人

 

投資家が「お金」よりも大切にしていること (星海社新書)

投資家が「お金」よりも大切にしていること (星海社新書)

 

  

 嫁が妊娠したこともあって、そろそろ本格的にお金について考える必要があるなと思っていたところ、会社の制度でファイナンシャルプランナーと面談する機会を得た。「投資家が「お金」よりも大切にしていること」(著:藤野英人)は、その担当者に「お金というものを理解する上でお勧めの本はありますか」という質問の回答として教えて頂いた。

 

 著者は「日本人のお金に対する態度や行動は不真面目である」という。「真面目」という言葉は広辞苑では「真剣な態度・顔つき・本気。まごころがこもっていること。誠実なこと」と書かれており、語源は中国宋代の詩人蘇東坡の「柳は緑、花は紅、真面目(シンメンモク)」という詩である。「柳には柳の色、花には花の色があり、それぞれ固有の美しさや役割がある」という意味で、転じて本質は何かを探る姿勢や態度であるとのこと。お金に対する不真面目さとして、金儲けしているということ=何か悪いことをしているという偏見を自分は持っている。この偏見は日本人の多くが持っているものであろう。偏見の元は清貧の思想であるという。それはヒーロー像にも出ており、アメリカのヒーローはお金持ちの民間人だが、日本のヒーローは公務員である。バッドマンはゴッサムシティの大富豪、アイアンマンは巨大軍需企業の御曹司兼武器商人だが、一方、ウルトラマンは宇宙警備隊員、遠山の金さんは町奉行だ。日本のドラマの主人公が刑事や医者ばかりな訳も分かる。

 

 では、お金に対してどう向き合えばいいのかという話になるが、その前に、エコノミー(経済)の語源がギリシャ語のオイコノミアであることを知る必要がある。オイコノミアは、「オイコス(家)」と「ノモス(法、ルール)」という言葉を組み合わせた言葉で、「共同体のあり方を考える」という意味である。つまり、エコノミーとは、どのように生きたら世の中のみんなで幸せになれるかを考えるということなのである。

日本の国道沿いは「ファスト風土」と言われるように、どの都道府県でもチェーン店とスーパーが立ち並ぶ風景が続くが、それは日本人がそういうお金の使い方をした結果だという。現にイタリアを例に出すと、独自のコーヒー文化があり、スターバックスが1店舗もない(2017年に1号店ができるらしい)。つまり、社会はひとりひとりが使ったお金で創られているのである。

 

 だから、僕も自分が行ったお金の投資または消費が、僕の未来を創っていき、そして、社会にも少しばかり影響を与えることをしっかりと認識した上で、お金と向き合い、家族を幸せにしなければいけないのである。

デザインのデザイン

 

 

デザインのデザイン

デザインのデザイン

 

 

「デザインのデザイン」(著:原研哉)は、大学時代、広告代理店のインターンシップに通っている際に、講師のクリエーターに紹介されたのがキッカケで読んだ本だ。

 広告クリエーターに憧れ、貪欲に広告関係の本を読み漁っていた時は過ぎ、クリエーターとは程遠い仕事をしている30歳を超えた僕が、この本を読むのは今回で3回目になる。この本をよって、「モノの形状」という意味でしかなかった「デザイン」という言葉の認識を格段に拡げることができた感動を思い出して何回も読んでいるのである。

 下記は本著のまえがきの引用だが、読後には、まさに「コップ」を「デザイン」に置き換えた状態となり、「デザイン」について注意深く認識するようになる。

何かを分かるということは、何かについて定義できたり記述できたりすることではない。むしろ知っていたはずのものを未知なるものとして、そのリアリティにおののいてみることが、何かをもう少し深く認識することに繋がる。たとえば、ここにコップがひとつあるとしよう。あなたはこのコップについて分かっているかもしれない。しかしひとたび「コップをデザインしてください」と言われたらどうだろう。デザインすべき対象としてコップがあなたに示されたとたん、どんなコップにしようかと、あなたはコップについて少し分からなくなる。さらにコップから皿まで、微妙に深さの異なるガラスの容れ物が何十もあなたの目の前に一列に並べられる。グラデーションをなすその容器の中で、どこからがコップでどこからが皿であるか、その境界線を示すように言われたらどうだろうか。様々な深さの異なる容器の前であなたはとまどうだろう。こうしてあなたはコップについてまた少し分からなくなる。しかしコップについて分からなくなったあなたは、以前よりコップに対する認識が後退したわけではない。むしろその逆である。何も意識しないでそれをただコップと呼んでいたときよりも、いっそう注意深くそれについて考えるようになった。よりリアルにコップを感じ取ることができるようになった。

  原研哉は「デザインは単につくる技術ではない。むしろ、耳を澄まし目を凝らして、生活の中から新しい問いを発見していく営みがデザインである」と語っている。このブログを通じて、新しい問いとまではいかないまでも、日々の生活の中で感じたことを備忘録も兼ねて、発信していければいいと思う。